双極性障害と歩んだ私の半生 |
2023/10/02 初版 2006年大学在学時に発症し、2015年に診断された双極性障害。病状が悪化し働けなくなり、まもなく実家も売却して失うので、生活保護を利用して横浜に移住することになった。 今冷静になって振り返るとどうやら私自身のせいだけではないようであることに気づいた。 内輪から、あいつはメンヘラ、キチガイ、精神が弱い、ストレス耐性がない、根性がない、努力不足、怠け者だのレッテルが貼られたままでは気が済まないので、ここに当たり障りのない程度に私の半生を書き記そうと思う。かなり長く、私怨も多分に含んでいると文章だと思うが、過去の私と決別と捉えて読んでいただきたい。 1985年。愛知県名古屋市にて生まれる。父は横浜の電機メーカの名古屋営業所勤務、母は専業主婦。 1988年。弟が生まれる。それと同時に住居面積の拡大のため名古屋市緑区に移り住む。 1992年。小学校に進学。1年次始めの初っぱな、気弱だった私は知的障害児からいじめにあう。そいつは名字で呼び捨てにする(ちゃんと発音できていない)、ヤクザ口調で脅すなど、どうも父親がヤクザのようであった。担任を巻き込み泣きわめいたが、そう長くは続かず自然消滅。あいつは今も生きているのだろうか。一概に知的障害者といっても美談になるのとならない場合がある。これは現代も論争が続いている。 1995年。4年生になり、押し入れにしまってあった父親の無線機を見つけ、アマチュア無線に興味を持つ。物好きの担任を巻き込み、4アマを取得し開局する。当時は子供だからパイルにあうほどだった。430を中心に近所の人気のレピータなどでブイブイ言わしていた。 1996年。5年生になり、生徒会の会計に立候補して当選する。演説や教室周りをした。この頃から権力が好きだったようだ。 スーパーファミコンやプレステを買ってもらえなかったりと、我が家は貧乏だなと思っていたが、97年にFMVを買うなど、そうでもないかなとも思っていた。しかしながら後で知ったことだが、貯蓄は全くしていなかったという。 1998年。中学校に進学。広瀬香美にハマる。 1999年。父親の栃木県に転勤のため、群馬県に中古一戸建て(築10年弱)約1800万をローンで購入。43歳で(あー…)。貯蓄がないため頭金など出せなかったが交渉の末契約できた。諸費用の現金100万円は爺ちゃんに出してもらったという。中学2年の4月に移り住む。両親は金がないため、爺ちゃんに10万円の初自分専用PC(SOTEC PC STATION M250A)を買ってもらう。6月にNAZの小窓を開設。ISDNを導入しダイアルアップルータを導入、テレホーダイに加入しMP接続でテレホタイムに没頭。23時から朝までIRCを含むネットで盛り上がり深夜アニメ(テレビ埼玉児玉中継局)を見て朝寝て学校に行くを高校卒業まで繰り返す。今思えばこれが体調悪化の要因の一つであったと思う。 2001年。高校に近所の公立高校に進学。工業科の情報技術科に入ったつもりが商業科の情報処理科だった。このあたりから詰めの甘さとガチャ運の悪さが出始めている。入学式後落ち込む。それでも3年がんばって成績上位の優等生だった。簿記やワープロ検定、情報技術検定、初級シスアドなどを取得する。クラスメイトが生徒会長に立候補するときに推薦責任者頼まれた。全校生徒の前で演説して絶賛された。あぁ輝かしい日々。内心商業科に入ってしまったことを3年間くよくよ悔やみ最悪だったが。そのため、大学進学、しかも推薦枠で受けられないのでAO枠を目指して3年生のとき、情報処理の先生と課題作成に奮闘する。長期休みに郵便配達のバイトをし、パソコンを組んだり、デジカメを買ったりした。母親が託児所のパートに通い始める。 2004年。埼玉県内の某私立大学の情報工学科入学。同時に400万以上の奨学金というローンを組む。そう、自分で大学に行ったのだ。無線部に所属。部長を務め、アマチュア無線に没頭する。郵便配達のバイトは続け、IC-706mk2gを買ったり、ノートPCを買ったりした。 2005年。バイト代で愛・地球博に、18切符とムーンライトながらで行く。3アマを取得し、IC-706mk2gを買い、50W運用を開始する。このときが人生最高潮だった。 2006年。父親が横浜に単身赴任したりと待遇悪化を感じ、退職し転職活動をする。結果、月給が手取り16万ボーナスなしの電気工事会社に入り年収が下がる。転職失敗である。母親の約10万に満たない手取りと合わせ世帯収入26万で当然ながら生活は破綻。以降、借金が繰り返されるようになり自転車操業が始まったようである。 2006年。3年次春、情報ボランティアで小学校に派遣される。そこで情報技術を生かしたボランティアをすることになった。何をするか3人で悩んだ。 2006年。夏。小学校のLAN敷設工事を始めることになった。同時に過労により鬱を発症。今思えば、過労が直接の原因ではなく、実家の経済状況の悪化が原因だったと思う。無線部界隈のメンツの力を借りてなんとか工事を完成させる。そのとき助けてくれた皆さんには申し訳なく、また大変感謝している。この頃より部室で酒に溺れるようになる。 工事完了後服薬で体調を取り戻すが、以降波あり。でも学業には励み、欠席もなく、成績も優秀だった。情報技術演習ではライントレーサー製作に相方(恩人)と励み、最優秀賞をもらう。ネットワーク研究室に所属し、卒業研究はD-STAR(ID-1)を使ったデータ通信の実験と検証を行った。卒業式で優秀賞をもらえた。 就職活動は苦戦した。通信工事会社を中心に受けたが、大手に全然受からない。資格が少なすぎたのだろう。妥協して東京の中手通建会社Wに受かって就活を完了する。 2008年。東京の中手通建会社Wに入社。一人暮らしを考えたが、お金が惜しかったので実家通いにした。埼玉で半年研修をし、都内で光回線の一般工事に従事する。2代目オデッセイ(RA6)の中古を入社とともにローンで購入。120万円ぐらいだったか。 2010年。現場に配属されたぐらいで、実家の資金繰りも悪化し、加えて過労で鬱を再発。私がカードローン数社で借りて親に貸す状態を繰り返す。総額80万超に達した。両親は枠があればすべて満額借り切っていたようである。奨学金の返済、自動車ローンの返済、カードローンの返済などで手元にはいくらも残らず、かろうじて残った分は実家に入れていたため、社会人になっても貯金したことが一度もなかった。同期や大学の皆は人生を楽しんでいるのに何で私は、と激しい嫌悪感に陥り、どんどん鬱が悪化する。 2011年。借金の返済で生活費が足りなくなりさらに借りてを繰り返す自転車操業が限界に達し、父親が債務整理、母親が自己破産する。私が貸した80万もなかったことにされる。しかし、借金が整理されたが前述の通り父親16万、母親10万の世帯収入26万では住宅ローンを抱えながら生活するには到底無理があり、以降も借金を繰り返すこととなる。 同じく2011年。実家の状況に耐えかね、転職活動を始める。この時点で躁状態が現れていた。振り返れば学生時代の全盛期が躁状態だったのかもしれない。まともな大手企業には当然ながら全然受からなかった。 2012年2月。愛知県春日井市に転居し、同市の零細通建会社Tに入社。この会社が大変なブラック企業でだったのである。みなし残業でタイムカードが存在しない。専務が体育会系のヤクザ風。ネチネチとした同僚からのいじめ。連日の深夜残業が続き、体調を崩す。躁鬱混合状態だったのだろう。ストレス発散のため、アニメBD購入やフィギュア購入など激しい散在をする。社長に給与が減ってもいいので業務軽減を願い出るが却下。実家に帰れと自主退職を促され6月に退職。病気理由により、すぐに失業手当が出た。このブラック会社を今も恨んでいる。死ぬまで恨み続ける。すぐに転職活動を始めるも焦りが強く、まともにできていなかった。 2012年8月。埼玉県川口市の零細通建会社Kに就職。貯金がなくアパートが借りられないため、会社が借りている職人用のマンションの一室に住まわせてもらう。これがまたブラック待遇で、早朝に出社し現場にでて、夕方帰ってきてからは事務作業を深夜までの残業を連日やらされた。タイムカードなし。1ヶ月半で退職。実家に戻る。 2012年冬。NHKの前橋放送局が独自送出を開始し局IDが変わり、受信できなくなる世帯が出るため、対策のためのNHK依頼のバイトをした。お宅に訪問し、リモコンで再スキャンをするという簡単なお仕事だった。楽しかった。 同じく2012年冬。ハローワーク紹介群馬県内の個人経営のIT会社Sに正社員として入社。最賃レベルの低賃金だったがやりたかったSEでやりがいを感じ、社長と2人で仕事に没頭する。「厚生年金保険お金無くて入れないんだよね。我慢して。」とかほざいていたので、自分で国民年金と国民健康保険税を払っていた。 2013年。低賃金で借金返済ができなくなり、自己破産する。家族一同共倒れである。 2014年。群馬県内の個人経営のIT会社S。最初は気の良い社長だったが、業務量増加とともにパワハラをし始め、残業も増えたが残業代不払いのままとなる。パワハラの内容は、業務量の増加による深夜残業とモンスターカスタマーにハマりだんだん寝られなくなり、それを社長に訴えたが、「そんなの睡眠薬飲めばいいだろ」と一蹴りされたり、車を運転してるときに信号待ちでウィンカーを出していると「カチカチうるせーんだよ。曲がる直前に出せばいーんだよ!」とか些細なもの、休日なので当然休んでいたら次の日「なんで重要なことがあるのに休むんだ」と理不尽な激しい叱責をされたり(泣いた)。なんで前の日に申し訳ないけど出てくれと言わなかったのか。それに休出割り増し、残業代出さない。あまりのパワハラに12月、ブチ切れて現場終わりにバックレて携帯を切って出社拒否。その後自宅に来たが両親が追い払う。しばらくして解雇通知(重要)が届く。業務内容も、違法ダウンロードした某OSや某写真編集ソフト、各種CADソフトなどを、得意の建築会社の現場事務所でインストールして1万円を請求するなど、「みんなやってるよ?」と言い、コンプライアンスのコの字もない。曲がりなりにもIT企業なのにキーボードは目視一本指打法で言語はVBで筋力だけで稼いできたという私よりも遙かにレベルの低い馬鹿社長だった。あと、よく「偉い」と言ってくる。偉いって目上の者が目下の者に言う物。あんた私の親か?私よりレベルの低い人に偉いと言われても馬鹿にされているようにしか思えない。言われる度に腹が立った。何様。おめーは何だ王様かなんかか? 2015年。某団体に加入し、不当解雇、解雇予告通知の支払い、残業代の支払い、パワハラ、未加入であった、雇用保険、厚生年金保険の加入など、数多くの不正とパワハラの謝罪と賠償を訴え勝訴。謝罪と賠償金150万ぐらいだったか。和解合意をし以降業務内容を含め口外しないこと、金銭を要求しないことを誓わされる。しかし今でも社長を恨んでいる。一生恨む。この会社に入らなければまともな会社で会社員勤めてたのに。お前のせいだ。 同じく2015年。障害年金を申請するために社労士に依頼し申請を進める。発症以来通っていた館林市内のSメンタルクリニックで主治医に診断書を依頼するも、「あなたは通らないから書かない(要約)」と言われた。この医者、無線部の後輩も通っており同じく障害年金申請のため診断書を依頼するも「書くのに2年待ち」とかふざけたことを言われたらしい。2年待ちって何だよ。グダグダ言ってないで今書けよ。完全にブラック病院、糞病院である。私が依頼した社労士を紹介し、転院して書いてもらい受給できたとのこと。私も足利赤十字病院に転院し、無事書いてもらった。この時点で「うつ病」から「双極性障害」の診断に変わった。社労士の先生と資料を作成して主治医に渡して診断書を書いてもらう。しかし軽めに書いてあるとのこと。これでは通らないのでさらに詳しい作成依頼書を作成し、社労士の先生と足利日赤まで行って受診。無事、現状を反映した診断書が出た。申請するも、しかし不支給。すぐに審査請求と再審査請求を申し立てる。そうしたらどちらも認められ無事障害基礎年金2級を受給することができるようになった。 2016年。近所のB型作業所に通う。半年ほどだったか。みんなとわいわい過ごす。ある知的障害者に気に入られ執拗に絡まれた。めんどくさく、正直嫌だった。半年経った頃、所長が近所の会社を斡旋してくれた。 同じく2016年、近所の通販会社(これ以上書くとすぐわかっちゃう)に障害者雇用のパートとして勤め始める。最初は商品データの入力作業。キーボード入力が早いので簡単なお仕事だった。2年経ったころ、情シスの人の目に入り、そちらに正社員として採用される。社内システムの管理をするようになった。私は本領発揮し、バリバリ働き、残業もバリバリした。完全に躁状態である。当サイトの日記も2016年頃から記事が増え始めていることからもわかるだろう。車も買った。自己破産していたので父親の名義でリースで購入。月3万3000円。でもそれでも障害年金もあって余裕で払えていた。知人を誘い豪遊する。無線部の後輩を誘い、ワンフェス2017に前入りし、散々な目にあわせてしまった。申し訳ない。しかし正社員になったとはいえ、障害者雇用。最賃レベルの給与であり、残業をすることでやっと一般的な額に達していたのである。それでも余った分はもちろん実家に入れなければならなかったため当然貯金は0。その後2020年頃から躁の反動でだんだん鬱状態に移行し、仕事ができなくなってきた。残業もやめた。これはふり返れば障害者雇用の賃金の頭打ちが原因だったと思う。そうこうしているうちに欠勤が目立ち始め、もう駄目だと思い、パートに戻してもらい、梱包作業や倉庫作業をするようになる。当然収入は半減し、生活が成り立たなくなる。そうしたら鬱がさらに悪化。5年勤め、2022年1月ついに自己退職となった。 2022年6月。その後、鬱状態が続く中、傷病手当と失業手当金も底をつき、焦って急遽埼玉県加須市の建材メーカーTに障害者雇用で就職するも、鬱状態で作業がまともにできず、1ヶ月でクビに。 父が乗っていた初代MRワゴンだが老朽化により廃車することとなり、何を思ったのかこちらもリースでミライースを契約。あー。この財政状況で?目も当てられない。 2023年1月。館林市内の就労継続支援A型作業所に通い始める。が、最賃で薄給のため、実家と私の経済状況が不安で作業に集中できない。上の空である。とてもA型でのほほんと作業を続けている場合ではない。そのため休みがちになり7月に行くのをやめた。 同じく2023年7月。焦って転職エージェントを用いて転職活動を始める。ちょっと躁が入っていた。数多くエントリーするも書類が通らない。そんななか、無線部OBが務めている茨城県内の無線会社に僅かな望みをかけてエントリーをする。書類が通り、社長とWeb面談するも、執拗に体調のことを心配されたため、これは駄目だと辞退する。まぁ今の体調なら当然である。 同じく2023年9月。ついに実家の資金繰りが破綻。住宅ローン残高400万、叔父からの借入れ180万、その他カードローン等の借入れで総額約800万の借金に達していた。収入が借金の返済と利息の支払いだけで消え、生活費が捻出できなくなる。最悪である。そのため実家の売却をする決断に至った。それでも売却益は400〜600万ほどで借金が残ることになる。 私の居場所がなくなるため、生活保護支援会社を利用し、単身横浜へ移住して生活保護を受給することを決断。障害者加算がつくので家賃は別で生活費は8万5000円。私も地元銀行に30万円、自己破産の弁護士費用の分割金13万円が残っていたが、生活保護では借金の返済をすることが禁止されているので、2度目の自己破産をすることとなる。生活保護で車は持てないので母親に渡す。リースは解約できないので3万3000を払ってもらうことになる。生活保護の食費の目安は1日1000円、1ヶ月3万円ぐらいとされているが、今の生活状況であれば大丈夫。というか今よりマシである。余裕があるので貯金もできる。 私も金遣いが荒かったので人のことはいえないが、両親のお金に対する計画性のなさには正直あきれている。また、子供に借金をさせてまで金を借りるのは、同居しているとはいえ倫理的にどうかしていると思う。 また、私の運の悪さが際立っている。元々双極性障害の素質があったから発症したのか、経済状況が悪化して双極性障害を発症したのかわからないが、この状況に陥ったら誰でも病むと思う。 A型作業所の職員に上記のことを含め現状をすべて話したら「よくここまで頑張ったね…」「優しすぎたんだよ」と慰めてくれた。 自室が片付き次第家を出る。 すべてを吐き出すことができた。もうわだかまりはない。長い文書を読んでいただいたこと、また、こんな私に長いこと付き合っていただいた大学の無線部界隈の先輩後輩に深く感謝致す。 ここで2024年3月16日に書いたライフチャートと考察を加筆して記す。 ---
幼少時代以外波に振り回されている。激しい躁の後に激しい鬱が来ている。これでは正常に生活できないわけだ。 2005年。万博のあたりが人生のピーク。18切符で万博の初日に行ったり、8月に車の免許取ってすぐに車で万博に行ったり。 翌年初めての激しい鬱落ち。なんとか就活を乗り越えるが。 社会人一年目の2008年から2012年まで躁鬱混合状態だったと思う。鬱でありながら躁の症状が出ていた。 日々の生活のストレスのせいで鬱状態かと思いきや、反動のように2011年に桜通線延伸で凸って幼なじみの実家に泊まったり、無謀な転職したり、フィギュアを買いまくったり、Willcomで2時間無料なのをいいことに昼夜問わず後輩に電話をかけまくったり。(流石に夜中に電話は怒られましたよ)。 2016年から2020年までの躁も凄かった。 2017年には後輩を引っつれてワンフェスに前日入りしたり。駐車場の警備員に出て行けといわれ、飲んでしまっていたので車を置いてカラオケで一晩。駐車代金は2日分取られた。これは相当な迷惑をかけたと思う。 2019年にはストライクウィッチーズのTシャツを着てハムフェアに行ってみんなにドン引きされたり。X7000を12D-SFAで建てたり。 2020年には車を買ったり。 2021年までフィギュアが半年に1体ぐらい届く感じだった。 残業もしまくったなぁ。 おわかりいただけただろうか。制御不能なのである。
|